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ラウル・デュフィ

(Raoul Dufy, 1877年6月3日 - 1953年3月23日)

野獣派に分類される19世紀~20世紀期のフランスの画家。「色彩の魔術師」20世紀のフランスのパリを代表するフランス近代絵画家。

画風

アンリ・マティスに感銘を受け彼らとともに野獣派(フォーヴィスム)の一員に数えられるが、その作風は他のフォーヴたちと違った独自の世界を築いている。デュフィの陽気な透明感のある色彩と、リズム感のある線描の油絵と水彩絵は画面から音楽が聞こえるような感覚をもたらし、画題は多くの場合、音楽や海、馬や薔薇をモチーフとしてヨットのシーンやフランスのリビエラのきらめく眺め、シックな関係者と音楽のイベントを描く。
また本の挿絵、舞台美術、多くの織物のテキスタイルデザイン、莫大な数のタペストリー、陶器の装飾、VOGUE表紙などを手がけ多くのファッショナブルでカラフルな作品を残している。

生涯

1877年

北フランス、ノルマンディーのル・アーヴルの港街に 貧しいが音楽好きの一家の9人の兄弟の長男として生まれる。父親は金属会社の会計係で、才能ある音楽愛好家。教会の指揮者兼オルガン奏者。母はヴァイオリン奏者。兄弟のうち2人はのちに音楽家として活躍。家計を助けるため14歳でスイス人が経営するコーヒーを輸入する貿易会社で使い走りとして働くためにサン・ジョセフ中学校を離れる。後にル・アーヴルとニューヨークを結ぶ太平洋定期船、ラ・サヴォアで秘書をする。

1895年

18歳のときに美術学校ル・アーヴル市立美術学校の夜間講座へ通い始めた。生涯愛したモチーフとなるル・アーヴルの港をスケッチ。右利きのデュフィは技巧に走り過ぎることを懸念し、左手で描いた。学校の友人フリエスらと共にアトリエを借り彼らとアーブル美術館でウジェーヌ・ブーダンを模写。ルーアン美術館でニコラ・プッサン、ジャン=バティスト・カミーユ・コロー、テオドール・ジェリコー、ウジェーヌ・ドラクロワを学ぶ。

1898年
~99年

兵役 戦争から戻り病身でヴォージュ地方のヴァル・ダジョルに滞在。

1900年

兵役の1年の後にル・アーブル市から1200フランの奨学金を得て23歳のときに一人故郷を離れパリの国立美術学校エコール・デ・ボザールへ入学。モンマルトルのコルトー街で暮らす。レオン・ボナのアトリエで学ぶ。ジョルジュ・ブラックと学友だった。印象主義の画家クロード・モネ、ポール・ゴーギャン、フィンセント・ファン・ゴッホ、カミーユ・ピサロなどに影響を受ける。

1902年

ベルト・ヴェイルを紹介されて、彼女のギャラリーにパステル作品を納入。

1903年

アンデパンダン展に出品。

1905年

アンリ・マティス、マルケと知り合い、アンドレ・ドラン、モーリス・ド・ヴラマンク、パブロ・ピカソなどの若いアーティストの作品をサロン・デ・ザンデパンダンを見てフォービズムに関心を向けリアリズムに興味を失う。

1906年

ベルト・ヴェイル画廊で個展を開く。

1907年

34歳の時に結婚。生活の為、木版画の制作を始める。

1908年

ブラックとレスタックで制作。セザンヌ風様式を採用。フォービズムから離れていく。

1909年

フリエスとミュンヘンに旅行。

1910年

ギヨーム・アポリネール と親交を結ぶ。

1911年

当時豪華王と呼ばれたファッション・デザイナーのポール・ポワレと知り合う。彼との仕事で木版刷りで布地のテキスタイルデザインをプティット・ユジーヌ工場で創る。アポリネールの動物誌の木版挿絵を制作。

1912年

フランスのシルク製造業を率いたリヨンのビアンキーニ・フェリエ商会とデザイナー契約を結ぶ。

1913年

南仏イエールに滞在。

1914年

第一次世界大戦が起こり陸軍郵便事業に従事。

1917年

翌年まで、戦争博物館の図書室員となる。

1918年

ジャン・コクトーの舞台デザインを手がける。

1919年

ヴァンスに滞在。

1920年

パリに戻りモンマルトルのジョルジュ・ブラックの近所に居を構える。

1922年

フィレンツェ、ローマ、シチリアに旅行。

1925年

「シャトー・ドゥ・フランス」シリーズが国際装飾美術展で金賞

1936年

ロンドンに旅行。

1938年

パリ電気供給会社の社長の依頼でパリ万国博覧会電気館の装飾に人気の叙事詩をフレスコ画の巨大壁画「電気の精」を描く。イラストレーターと兼アーティストとしての評判を得る。多発性関節炎発症。ポール・ヴィヤール博士は、デュフィの主治医。

1943年
~44年

第二次大戦中はスペイン国境に近い村に逃れて友人と共に暮らす。

1945年

ヴァンスに滞在。

1950年
~52年

リューマチのコーチゾン療法を受けるために米国のボストンへ

1952年

ヴェネツィア・ビエンナーレの国際大賞を受賞。

1953年

3月23日にフランス、心臓発作のためフォルカルキエにて死去。75歳没。ニース市の郊外にあるシミエ修道院墓地に埋葬される。

代表作

  • サンタドレスの浜辺(1906年) 愛知県美術館
  • 海の女神(1936年) 伊丹市立美術館
  • 電気の精(1937年) パリ市立近代美術館 長さ60メートル、高さ10メートルの大作
  • 三十年、或いは薔薇色の人生 パリ市立近代美術館